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2012年10月29日 (月)

「予知不可能」を敗北宣言にするな

日本地震学会が地震の予知は不可能だという見解を公にし、情報としては予想の範囲にとどめることを決めた。「地震は予知できる」ということを前提に進められてきた東海地震対策だが、予知された地震は一つもないのが現実であり、学会の見解が変わっても私たちの地震への備えはいささかも変わらない。騒ぎ立てる必要はない。

 

地震学会の意向を推測するならば、くり返すが現実に予知された地震はなかったし、「地震は予知できる」という誤解を引きずっていられては困るという思いだろう。東日本大震災は現実に予知できなかったし、専門家が想定さえできなかったマグニチュード9・0という規模だったということを考えればそれも仕方がない。学会もそれを素直に受け入れざるを得なかったということだろう。善意に解釈すれば「学者の良心」といえなくもないが、敗北宣言になってしまう可能性もある。

 

そうした学会の判断に楯突くわけではないが、今回の見解転換が地震予知への挑戦を後退させてしまうことのないよう注文しておきたい。これまでの東海地震対策の予知への取り組みが無駄だったとか、無意味だったとかいう空気につなげないでほしい。「あす起きても不思議でない」とする“石橋学説”の発表以来、気象庁を中心に進められてきた地震予知への取り組みは観測技術の向上やツールの開発進歩に功績を残したし、研究者を育て、国民の地震に関する知識の底上げにもつながった。

 

確かに東海地震説から30年あまりを経ても予知に成功した例はないのだから、「予知はできる」とは学会としても言えないのだろう。「いつ」「どこで」「どれだけの規模で」地震が起きるという予知はできないが、予想はできるという学会の説明も一つ分かりにくい。ただ、「予知できる」という認識を引きずりたくないというところに逃げの姿勢を感じる。予想と予知を使い分けるというのも言葉でいうほど簡単ではないだろう。

 

五十歩譲って予想という概念を受け入れるにしても、それは予知をめざして取り組む結果として得られるものだろう。東日本大震災は予想を超えた規模の地震だったというより専門家が恐れて想定しなかった地震規模だったのではないか。「取り返しがつかないような規模の災害が起きる可能性」というのは予知でも予想でもないが、専門家はそういう想起を恐れてはならないと考える。自然科学、とりわけ震災、災害研究と取り組む者は厳しい自然の摂理から逃げてはならない。

 

私たちは東海地震説の発表以来、地震への備えをおろそかにしたことはない。ましてや「地震は予知できる」と信じ切ってきたわけではない。予兆も前ぶれもなくやってくる悪夢を心において備えてきた。学会の方針が変ったからといって心構えを変える必要もない。

イタリアで死者300人余を出したラクイラ地震で地震学者や行政当局者7人が過失致死罪の有罪判決を受けたことが騒ぎになっているが、地震学者の判断が曖昧だったことと行政責任者が「家にとどまっていていい」という勝手な判断を示した「過ち」が問われたもので、今回の日本地震学会の方針転換とは同じ線上の問題ではない。

一番恐れることは日本の地震学会や専門家、研究者がいつしか「地震予知はできない」という認識で固まってしまい、これまで先達たちが残した予知研究の蓄積がホコリをかぶってしまうことだ。

 

川柳「朝囀」 シナリオに ないから緊張 するのです    (誠)

 

 

 

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