3社長に無罪、司法も常識から脱線だ
国鉄の分割民営化に伴ってJR西日本のドンにおさまった元会長、その意を汲んだ後継の2人の社長たち…スタイルは異なっても君臨し続けた。
その命を受けて社員たちは身も心も粉々になるほど頑張ってきた。
何かが起きたときはドンたちが責任を取ると信じて耐えた。
だが、神戸地裁はその何かが起きたときの責任を3人に問わなかった。
乗客106人と運転手が死亡、562人が負傷した尼崎JR脱線事故で業務上過失致死傷罪で強制起訴されたドンたちは全員無罪となった。
威張りたいように威張り、やりたいようにやってきた、その先で起こった大惨事だったのに何の責任もないのだという。
事故は会社の各層がかかわって起きるので個人を処罰対象とする今の刑法での立証は困難なのだという。個人と言っても責任ある経営者じゃないか。
現場カーブの危険性は各社長在任中、社内で検討されたことがなかった。3人は速度超過による脱線事故を具体的に予見することが出来なかった。現場カーブへの自動列車停止装置を設置すべき注意義務は3人になかった。
だから、無罪なんだと判決骨子は述べている。
判決骨子の論旨はちょっとおかしくないだろうか。
現場カーブの危険性の検討を怠った。速度超過による脱線の危険を掌握し、事故防止のために自動停止装置の設置を指示すべきだった。
それをすべて怠ったのは経営トップの責任を果たしていない。
だから、有罪だという判決になるべきだろう。
具体的な危険性を予測していなかったことが無罪判決の根拠になると判決骨子は言っているが、それは逆だろう。
自ら危険性を察知し事故の可能性を予測して手を打ってこそ経営者ではないか。
部下を信じて任せていることと、現場の状況に無関心で、危険性を自ら掌握することを怠っていることが同じ法の上で論じられたらすべて無罪になってしまう。
経営者のやりたい放題を許してしまう。
判例主義の司法は正義から遠い。
そこでは人命の尊さがあまりに軽んじられている。
裁判委員制度や検察審査会制度の導入など司法の市民目線化が叫ばれているのに、一方では法の壁をタテに逃げの姿勢が続いている。
こんな司法では犠牲者は浮かばれない。
川柳「朝囀」 司法まで 常識線から 脱線し (誠)
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安全対策のスタートは危険を予測するこか始める。福島の原発事故と言い今回も予測できなかった事で起訴を免れ無罪となると言うことは安全対策をしなくてもこの国では何の罪にも問われないと言うことだ。「予測できない」ではなく歴代の経営者が危機を「予測しなかったこと」自体を罪に問わなければ安全対策は進まない。司法は法の限界等と言って逃げず法の正義を貫け。
投稿: 大澄 功 | 2013年9月28日 (土) 13時11分